2008年02月23日
帝国の遺産(その2)~祖父の思い出~
『 南部十四年式拳銃 』(帝国陸軍制式名称:十四年式拳銃)
≪祖父の苦い思い出≫
※私には、母方の祖父が居る。男4人女2人の6人兄弟の長男として、大正3年(1914年)生まれ、当年94歳に
なります。
その祖父に昨週17日の日曜日に所用があったのか、我家に来ました。丁度購入したばかりのマルシン製
『 南部十四年式拳銃』(ブローバックバージョン)を居間に置いていたのを見つけ、曾孫(私の愚息共)と話して
た。
祖父:「大きい祖父ちゃん(私の祖父の事を曾孫にはそう言います)は、昔、支那(中国)でこれの本物を撃った
事有るんやで」
長男:「ほんま?どんなんやった!?」
祖父:「△△大尉さんちゅう人が持ってたのをな撃たしてもろたんや。よう当ったでぇ~」
次男:「敵の兵隊を撃ち殺したん?」
祖父:「人は撃ってへんよ。夕ご飯のおかずの羊撃ったんや。戦争で飼ってた羊が逃げ出していてそこら中に
おったんや。」
長男:「拳銃で撃ったの?ライフルで撃たんかったん?」
祖父:「小銃は戦争用やさかい勝手に撃ったら怒られたんや。拳銃と弾は、その偉い人が自分でこうたんや。」
(「こうた」は「買った」の意味です。)
次男:「大きい祖父ちゃんは、持って無かったん?」
祖父:「ジイちゃん等は下っ端やし、貧乏やったからこうてへんよ。この鉄砲は○○ちゃん(愚息次男)のか?」
次男:「ちゃうよ。父ちゃんのや。」
祖父:「なんや。大人のくせにこんなオモチャで遊んどんか!?」
そう言われて、傍で居た私は「大人のくせに」って言われたら少し恥ずかしかったんですけど、
私 :「子供のオモチャとは全然違うよ。造りも値段もよ。これは、大人の趣味やで。」
って言ったら納得したのかどうか判らないですけど何も言わなかった。
その後、私の所有している銃を息子達が見せていましたが、“マウザーKar98k”を見て、
祖父:「見た事の有る小銃やなぁ。敵兵が持ってたで。」
その他にも“ブローニングM1910”や“エンフィールドMkⅢ”も知っていた。ただ、エンフィールドは私の勝手な想像ですが、26年式拳銃と間違ってる様でした。それはともかく、丁度息子達も居て、良い歴史勉強する機会なので戦争体験を色々聞こうと思い祖父にお願いしたが、
祖父:「もうだいぶ昔の事やさかい忘れたは~。
○○ちゃん等これから畑行くさかいに一緒に行こらぁ。
大きいジイちゃん腰イタイさかいに、○○ちゃんの力貸
して欲しいんや、荷物提げられへんさかい」
と言って、息子達と出て行ってしまった。
※今から30数年前、私が小学5年頃にも上述の祖父と曾孫の息子達のやりとりを経験をしています。
夏休みの宿題で「太平洋戦争について作文を祖父母から聞いて書く」と言うのがあり、祖父に聞いてみたが適当
に誤魔化され、更に私が
「宿題やから、聞いて作文を書かなあかんのよ!」
と言うと、凄く叱られ、それ以上は怖くて聞けなかった事を思い出します。
後で祖母に聞いたら、
「じいちゃんは、戦争に行って、見たり聞いたりした事は、しゃべりたがられへんよ。私が教えてたらよ。」
と言うやりとりがありました。
※ただこれだけの事ですが、今思い出すにつけ、祖父は中国大陸東北部(旧満州)で何があったのか気になります。思い当たる節としては、昭和14年(1939年)再召集され、満州に行ったが昭和17年(1942年)に病気を患い家に帰ってきた。その入れ代わりに祖父の直ぐ下の弟が出征し、この翌昭和18年の秋にフィリピンに向かう途中、輸送船を沈められ戦死した。
「自分は病気で戦線を離れ、兵役が務まらず帰宅、入代わりに弟が出征し、戦死。本来であれば弟が家を継ぎ、戦死は自分がすべきだった。」
と言って悲しんでいた事があると祖母や母に聞いた事があります。
この事が、戦後63年たった今でも祖父の心の傷(?)苦い思い出(?)となっているのかと思うと少し可愛そうで、子供の頃ならともかく、40を過ぎた良い歳になっている自分なのに心無い事を聞いたかなっと少し反省しています。
※でも、曾孫と「南部十四年式」で遊んでいる姿は、感慨深げでは有りましたが、そんな苦い想い出なんか一切無い様な雰囲気でした。
ちなみに、この祖父は94歳になった今も、車を乗り回し、彼女(祖母は20数年前に他界しております)をつくって、ゲートボールに勤しんでいます。取敢えずシャンシャンした元気なジイちゃんです(^_^;)
Posted by のぶちゃん at 19:10│Comments(0)
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